
不明門を出ると、西北隅櫓のように名古屋城の歴史と建築に深く関わるものと、寄附や近代に建てられたものも多く見かけられます。
名古屋城不明門の北側(外側)は、不明門から大天守石垣まで剣塀(塀に剣のようなものを施したもの)となっていて、いわゆる忍び返しと呼ばれる防護機能を備えている。不明門の内側にはありませんよ。
剣塀になっていることがよくわかりますよね。いわゆる忍返しというやつです。
不明門北側から見た名古屋城天守閣
加藤清正の刻印を探しても、なかなか見つかりませんね。ちょっと遠すぎます。
天守閣に用いた基礎石の見本をここに展示してます。
出雲地方独特のもので、古墳時代後期のもの。名古屋市の長谷川祐之氏より寄贈されたらしい。本来名古屋城にあったものではないようで、なぜ名古屋城にあるかは不明。
開くのは不定期。
結構、風情がある場所なんですが、あまり使われていないようです。
なんだか、もったいないですよね。
「御深井丸」と書いて、「おふけまる」と読みます。御深井丸展示場では、主に貴澄人形が展示されています。作者が、武田貴澄氏なので貴澄人形というようですが、点数もさることながら、なかなか手の込んだものですよ。
その他には、織田信長ゆかりの木型などもありました。
御深井丸展示場出入口
織田家ゆかりの・・・
御深井丸では、尾張徳川家の台所などの焼き物を焼いたことから、御深井焼(おふけやき)と呼ばれる焼き物もあります。元は瀬戸による焼き物で開いたが、御深井丸で焼いたことから御深井焼と称されるようになりました。
おとなりの名城公園にも御深井丸についての記述があります。
別名を戌亥櫓、清洲櫓ともいいます。西北隅櫓、戌亥櫓は天守閣を基準に方角を示す名称ですが、清洲城の用材を使用して築造されたことから清洲櫓ともいわれます。
御深井丸の西北隅にある三層三階の隅櫓外部北面、西面に千鳥破風が彩られ、落狭間を備える屋根は入母屋本瓦葺解体修理によって他の建物の古材を多用しているようです。名古屋城の建物としては最も古い建物です。
西北隅櫓のお濠は厳重な警戒を要する場所であることから、薬研堀(やげんぼり)になっているようです。ちなみに、薬研堀は名古屋城では3ヶ所しかありません。
明治初期に名古屋鎮台弾薬庫として建造され、「乃木希典」に因んで乃木倉庫と名付けられました。第二次大戦中には、本丸御殿の障壁画などにあった取り外しが容易な重要文化財を一時この倉庫に避難させたようですが、流れ弾で一部焼失したため、改めて三河の猿投村(現、豊田市)へ避難させました。
わかりにくいかも知れませんが、ちゃんと窓が開いて喚起されてます。
閉め忘れじゃありませんよね?
ここは夏のイベントなどで利用されますが、普段はあまり人が来ませんね。でも椿園などもあったり、池もあったりで、ここに来ると名古屋城も公園なんだっていうつくりが実感できます。
ただ、もう少し地面を整地してもらいたいとは思うんですが・・。
本丸御殿の再建計画が進んでいます。その為、しばらくは本丸御殿に関する展示が続きそうです。
ちょっとお目にかかれない形の日時計ですね。
でも、読み方がピンとこないと困りますよね。
こちらでわかるかな?考案者は、矢橋徳太郎氏(愛知淑徳短期大学)