

何度か名古屋城に足を運んだ人でも、時間に余裕がない限りゆっくりと二之丸をご覧になる方は少ないのではないでしょうか。ここへは名古屋城で一日過ごすつもりで、もしくはもう天守閣は何度も見たから二之丸を見ようというつもりで足を運んでくださいね。途中で抹茶も頂くことができますよ。有料ですけどね。
TOPの外堀を渡り、二之丸の足を踏み入れると最初に出くわすのが加藤清正の石曳き像です。そういえば、能楽堂の前に加藤清正像がありましたね。
こちらは、名古屋北ライオンズクラブによる寄贈(作者:石黒しょう二)です。
青松葉(あおまつば)事件というのは、徳川尾張藩で慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけておきた佐幕派弾圧事件です。14代藩主であった徳川慶勝によって弾圧の命令が下されていますが、その理由は定かになっていません。
青松葉事件で処刑された重臣の一人、渡辺在綱の家が「青松葉の渡辺」と呼ばれており、その名から青松葉事件と呼ばれているようです。
この立て札と石碑は二之丸無料休憩所西南の愛知県体育館側にあります。
名古屋城東門から200m程のところにあります。愛知県体育館はこの直ぐ裏側(南側)にあります。
藤棚が手前に見えます。奥に見える門が名古屋城東門です。
名古屋城東門からも名古屋城に入場できます。毎年8月に行なわれる夏の名古屋城まつりは二之丸を中心に行なわれるため、この東門を利用する人が多いようです。
二之丸庭園は二之丸無料休憩所の前から入ります。
二之丸庭園
二之丸庭園の一景。那古野城跡とされています。
織田信長はこの那古野城で生まれたといわれています。
◆ 以下は告知にある名古屋市教育委員会による「那古野城跡」の説明
大永(1521〜1528)の初め、今川氏親が名古屋台地西北端に築いたもので、一名「柳の丸」といった。
氏親は、一族の氏豊を城主として守らせていたが、天文元年織田信秀のため城を奪われた。その後信秀が居城し、天文三年信長はここで生まれたといわれる。
同年、信秀は古渡城に、また、弘治元年(1555)信長も清須に移り、一族の信光が居城したが、やがて廃城となった。
慶長十五年(1610)名古屋城築城の際、二之丸の一部となった。

この茶庭は名古屋市の外郭である財団によって作られている。
金の茶釜と水琴窟(すいきんくつ)
◆ 真形釜丸八文様鯱常環付(純銀生地24金鍍金)
毎週金曜日・10時から16時までこの金の茶釜でお茶を点ているそうです。
是非、お運び下さい。

名古屋のライオンズクラブが寄附したもののようです。
この人はバードウォッチングでも楽しんでいるんでしょうか。

二之丸には多春園・山下茶席・余芳亭・風信亭など6つの茶席があった中で最大規模の茶席が霜傑亭です。御城御庭絵図によって確認されており、●畳部分:五郎太石 ●廊下部分:砕石・漆喰たたき ●平面部分:小砂利で示して建物の構造を理解しやすくしているそうです。
お庭の外側の暗渠式排水路。御城御庭絵図からは、この上には花壇が整備されていたようです。金城温古録にある、雨水を引き入れるための「水道石樋」の遺構。現在も石樋を通じて雨水が堀に注いでいます。
場所は二之丸の中でも西北になるでしょうか。お壕向う側に見えるのは本丸御殿や天守閣のあったところ。埋門というのは、城郭の石垣または土塀の下をくぐる、いってみれば重要人物用の避難路。ここから時の名古屋城主は、この門をくぐり垂直の石段を降りて壕を渡り、対岸の御深井丸の庭から土居下を通って大曽根、勝川、定光寺を経て木曽路に逃げ延びることが想定されていたようです。
二の丸の中でも、もう人は通ることはないだろうなぁ〜なんてところでもちゃんと手が入っているんです。やっぱり管理費って馬鹿にならないでしょうね。
これ、どの辺りだと思いますか。
実は、霜傑亭(茶席)跡の直ぐ東側にあるんです。名古屋城には何度も足を運んだんですが、霜傑亭(茶席)跡にはこれまで全く気づくこともありませんでした。おまけにこの剪定やここの道は見る人も殆どいなさそうな気配なんです。
これは同じ場所から南を向いてとったところ。左が東になります。