
徳川家康の四男・忠吉は関ヶ原の戦い後に尾張清洲城主に封じられた。徳川忠吉は、慶長12(1607)年3月に子がないまま没したために、甲斐国府中から徳川家康の九男・義直(義利)が転封された。徳川家康は名古屋城築造を命じ、慶長15(1610)年に本拠を清洲城から名古屋城に移したが、実際に義直が尾張に入国したのは元和2(1616)年のことである。尾張徳川家は、ここから始まることになる。
| 歴代 | 藩主 | 生没年 | 父 | 正室 |
|---|---|---|---|---|
| 在任期間 | 母 | |||
| 初代 | 義直 よしなお | 慶長5(1600)年生 慶安3(1650)年没 | 徳川家康(9男) | 春姫 (浅野幸長女) お佐井の方 (津田信益娘) |
| 慶長5(1607)年閏4月 慶安3(1650)年5月 | お亀の方 | |||
| 二代 | 光友 ともみつ | 寛永2(1625)年生 元禄13(1700)年没 | 義直(長男) | 千代姫 (徳川家光娘) |
| 慶安3(1650)年6 元禄6(1693)年4月 | お尉の方 | |||
| 三代 | 綱誠 つなのぶ | 慶安5(1652)年生 元禄12(1699)年没 | 光友(長男) | 新君 (広幡忠幸娘) |
| 元禄6(1693)年4月 元禄12(1699)年6月 | 千代姫 | |||
| 四代 | 吉通 よしみち | 元禄2(1689)年生 正徳3(1713)年没 | 綱誠(十男) | 輔姫 (九条輔実娘) |
| 元禄12(1699)年7月 正徳3(1713)年7月 | お福の方 | |||
| 五代 | 五郎太 ごろうた | 正徳元(1711)年生 正徳3(1713)年没 | 吉通(長男) | − |
| 正徳3(1713)年8月 正徳3(1713)年10月 | 輔姫 | |||
| 六代 | 継友 ともつぐ | 元禄5(1692)年生 享保15(1730)年没 | 三代・綱誠(十一男) | 安己君 (近衛家熈娘) |
| 正徳3(1713)年11月 享保15(1730)年11月 | 和泉の方 | |||
| 七代 | 宗春 むねはる | 元禄9(1696)年生 宝暦14(1764)年没 | 三代・綱誠(二十男) 大久保松平家より養子 | − |
| 享保15(1730)年11月 元文4(1739)年正月 | 梅津の方 | |||
| 八代 | 宗勝 むねかつ | 宝永2(1705)年生 宝暦11(1761)年没 | 松平友著(川田久保松平家)(長男) 高須松平家より養子 | 三姫 (四代吉通娘) |
| 元文4(1739)年正月 宝暦11(1761)年6月 | お熊の方 | |||
| 九代 | 宗睦 むねちか | 享保18(1733)年生 寛政11(1799)年没 | 宗勝(二男) | 好君 (近衛家久娘) |
| 宝暦11(1761)年8月 寛政11(1799)年12月 | お嘉代の方 | |||
| 十代 | 斉朝 なりとも | 寛政5(1793)年生 嘉永3(1850)年没 | 一橋治国(長男) | 淑姫 (徳川家斉娘) |
| 寛政12(1800)年8月 文政10(1827)年8月 | 彰君 | |||
| 十一代 | 斉温 なりはる | 文政2(1819)年生 天保10(1839)年没 | 将軍家・徳川家斉 (十九男) | 愛姫 (田安斉匡娘) 福姫 (近衛基前娘) |
| 文政10(1827)年8月 天保10(1839)年3月 | お瑠璃の方 | |||
| 十二代 | 斉荘 なりたか | 文化7(1810)年生 弘化2(1845)年没 | 将軍家・徳川家斉 (十一男) | 猶姫 田安斉匡娘) |
| 弘化2(1845)年8月 嘉永2(1849)年4月 | お礼の方 | |||
| 十三代 | 慶臧 よしつぐ | 天保7(1836)年生 嘉永2(1849)年 | 田安斉匡 (七男) | − |
| 弘化2(1845)年8月 嘉永2(1849)年4月 | お礼の方 | |||
| 十四代 | 慶勝 よしかつ | 文政7(1824)年生 明治16(1883)年没 | 松平義建 (高須松平家・二男) | 矩姫 (丹羽長富娘) |
| 嘉永2(1849)年6月 安政5(1858)年7月 | 規姫 | |||
| 十五代 | 茂徳 もちなが | 天保2(1831)年生 明治17(1884)年没 | 松平義建 (高須松平家・五男) | 政姫 (丹羽長富娘) |
| 安政5(1858)年7月 文久3(1863)年9月 | みさをの方 | |||
| 十六代 | 義宜 よしのり | 安政5(1858)年生 明治8(1875)年没 | 十四代・慶勝(三男) | − |
| 文久3(1863)年9月 慶応4(1868)年正月 | お玉の方 |
徳川園には庭園、徳川美術館、蓬左美術館などがある。
優れた東洋古美術の多くは、古くから公家や武家、そして豪商などの邸に秘蔵されてきました。江戸時代においては、徳川将軍家はじめ徳川御三家でした。
初代義直は学問を好み、儒教に傾倒し、文治政策を推進しました。 やがて美濃と信濃の一部も加封されて、元和5年(1619)には総石高61万9450石といわれ、その当主は従二位権大納言を極位極官とする家格とされました。
七代藩主宗春は幕府の緊縮財政に対して、積極的な自由放任政策をとり、幕府との確執を生みましたが名古屋の城下は栄え、江戸、大坂、京都に次ぐ大都市に発展しました。同時に、華道・茶道・俳諧などの芸事が盛んになると他国からも多くの役者が名古屋城下に集まり、今日名古屋が"芸どころ"といわれる基礎となりました。
現代も尾張徳川家ゆかりの美術館が財団法人徳川黎明会として運営されている。また、名古屋城や尾張徳川家とも縁のある書物を所蔵する名古屋市立の文庫も紹介する。
◆ 徳川美術館: 名古屋市東区徳川町1017 電話:052-935-6262
◆ 八雲産業株式会社: 東京都豊島区目白3丁目8−11 電話:03-3950-0111
◆ 徳川ドミトリー: 東京都豊島区目白3丁目8−11 電話:03-3953-1201
◆ 名古屋市蓬左文庫: 名古屋市東区徳川町1001 電話:052-935-2173
尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する公開文庫です。
熱田の宮の歴史は古く全国にその名を知られた中国の伝説にいう仙人の住む蓬莱山にあたるという言い伝えがあり、別名「蓬莱の宮」「蓬が島」などと呼ばれました。江戸時代の初期に開いた新興の城下町である名古屋は、蓬莱の宮の左方に開けた「蓬左」、名古屋城は「蓬左城」とも呼ばれました。即ち、蓬左文庫=名古屋文庫という意味になります。